芦野宿と伊王野の里ガイドブック

芦野・伊王野地図
芦野・伊王野地図

奥州道中と芦野宿

 奥州道中は幕府の命により整備され、これによって、従来の東山道、中世以来の関街道と呼ばれた伊王野谷を通る道は、脇街道となった。
 関ヶ原合戦の後、慶長年間のことである。これにより、芦野は城下町として、また新街道の宿駅として、江戸時代の流通経済の発展に伴い交通の要衝(江戸方面からみれば関東北 端の宿駅であり、東北からすれば、関東の入り口に当たる)として発展した。
 芭蕉の奥の細道をはじめとして、多数の文人墨客がこの地を訪れている。明治になるとこの道は、「陸羽街道」となり、新国道の開通まで国道の機能を果たしていた。


◆芦野氏旧墳墓(唐木田地区)
町指定文化財
那須氏から入り芦野氏を継いだ資方(すけかた)から資泰(すけやす)までの代々の墓(初代から18代まで)。現在いくつかの五輪塔、自然石笠付位牌形の石碑が残っている。唐木田地区の入口にある。
◆宿場としての芦野
 
芦野宿は芦野氏の居城桜ヶ城(御殿山)の城下町として発生し、江戸時代には奥州道中の宿駅として発達した。
芦野宿の最も繁華な仲町には大正10年代(1921)までは用水堀が道路真中を流れて いた。
新町および川原町は、主として商工業を営む者が多く、御徒士以下の家臣の多くはこの両町に居住し、旅籠や雑貨などの商売を営む者もいた。
◆安達家蔵座敷(丁子屋)
町指定文化財
江戸時代、芦野宿は芦野氏の城下町として発達し、さらに江戸時代になって奥州道中が整備され、交通、運輸が盛んになると、宿駅として発展した。道中で関東北端の宿駅にあたり、幕末には旅宿の数も40余軒に達した。安達家は、それらの中心街にある旅宿「丁子屋」であり、その蔵座敷八畳二間は、意匠に優れている。道中身分の高い者は、安全をはかってこのような土蔵造りの部屋に泊まったといわれている。
◆武家屋敷門と構え(平久江家)
町指定文化財
江戸時代、上級家臣にのみ許された格式の高い、棟門の形式で建築されており特有の構えを持つ武家屋敷である。芦野氏の陣屋の大手入口を入った左側にある。門内には桝形が見られる。芦野氏の上級武士の住居や様子などの遺構を知ることができる。
◆揚源寺とアスナロウの木
町指定文化財
天台宗で、東蘆山地蔵院揚源寺という。境内に向かって左手奥、渓流が流れる所に不動明王が安置されており、その後ろに御神木のアスナロウの木がある。樹高21.6m、目通り周囲4.5mあり、樹齢600年と推定されている。「アスナロウ」はひのき科の常緑高木で寒冷地の樹木であり、このアスナロウは分布上南限に近く、当地方のアスナロウとしては珍しいものである。境内には芦野小学校の前身「亮道館」の記念碑や句碑が建っている。
◆芦野城跡(御殿山)
町指定文化財
戦国時代〜明治維新までの芦野氏の居城である。本丸、二の丸を主体とし三の丸に相当する郭が西方にある。北側は根古屋という重臣の屋敷がある。芦野資興が天文年間に築城。築城記念の高野槇は県指定天然記念物になっている。また桜ヶ城とも呼ばれており毎年4月中旬頃が満開になり多くの人々が訪れる。
◆芦野氏新墳墓(建中寺境内)
町指定文化財
芦野氏新墳墓は、芦野(新町)の建中寺境内にある。寺の石畳を上り、右側に折れるとやや小高い所に墳墓群がある。墓域は奥まで約50m、幅は南側で7m、北側25mの細長い区域である。
本墓は、芦野氏19代民部資俊(みんぶすけとし)(資泰の子)をはじめとして、以後江戸時代末の27代資原までの9代の当主と家族の墓域となっている。
◆芦野氏陣屋裏門(芦野城)
町指定文化財
御殿山にあった芦野氏陣屋の裏門を大塩家が買い受け、現在の地へ移築したものである。門の造りは、正面向って右側は中間部屋で左側は厩になっている。旗本芦野氏の遺構を伝える貴重なものである。
◆堂の下岩観音
町指定文化財
奈良川の西岸(右岸)の西坂から東岩崎の間に芦野石の石脈が続いており、ここは旧芦野石の採掘所であった。この南端に近い所に「堂の下」集落があり、その集落の西部に芦野石の岩肌が露出していて今にも崩れ落ちるかのようにそびえ立っているところがある。その中腹に観音堂がある。古くから信仰があったようであるがくわしくはわかっていない。
◆三光寺(芦野聖天と掛軸)
町指定文化財
上の町に位置し、日本三所聖天(浅草、妻沼、芦野)の一つとして有名。室町時代、弘治年間(1555)宥徳上人による中興開山、拝殿の額面(聖天)の二文字は白河城主松平定信の直筆である。
◆健武山湯泉神社と大杉
県指定文化財
芦野宿より西方に位置する健武山湯泉神社は、芦野氏が代々敬ってきた神社で、室町時代に那須与15世の孫資忠の三男資方が芦野の領主となって勧請したものと伝えられている。境内にある「おおすぎ」は、樹高50m、目通り周囲6.45m、推定樹齢約700年のもので御神木である。
◆べこ石の碑(峯岸)
町指定文化財
嘉永元年(1848)戸村忠恕翁が晩年、人倫道徳の本道を人々に教え諭すために建てられたもので、石が臥牛に似ていることと人身牛首の炎帝神農氏の姿が彫られているのでこの名がある。
◆諭農の碑(板屋)
町指定文化財
べこ石と同じ1848年、芦野の学者、戸村忠恕翁が晩年、板屋村のため撰文したもので、碑文の内容は、病害虫の駆除予防から飢饉への対処の仕方まで農民の実学的な内容となっている。
◆高瀬湯泉神社
町指定文化財
永正二年(1514)鳥山城主が奥州へ発向の時武運長久を祈願した社と伝えられる。
◆遊行柳(別名「朽木の柳」)
町指定文化財
鎌倉時代、元久2年(1205)、の『新古今和歌集』に載せた西行法師の「道のべに清水流るる柳かげ、しばしとてこそ立ち止まりつれ」は、有名である。また、室町時代の文明3年(1471)、遊行19世尊皓上人が訪れた際、朽ち木の柳の精が老翁に化けて上人の前に現れ、上人はこれに念仏札と十念を授けた。老翁は「草も木も漏れぬ御法の声きけば朽ち果てぬべき後もたのもし」。これに対し上人は「思いきや我が法の会にくる人は柳のかげにかくれぬとなん」。この返歌で老翁は柳のかげに姿を消したと伝えられている。さらに謡曲としても「遊行柳」は有名になった。そして西行法師から500年後、元禄2年(1689)旧暦4月20日、芭蕉が、そして芭蕉から54年後の寛保3年(1743)には蕪村がそれぞれこの遊行柳を訪れている。
◆芦野氏居館跡
町指定文化財
吾妻鏡建長8年6月2日の条「奥の大道に夜盗……」に那須肥前前司、福原小太郎と一緒に「芦野地頭」が記録されている。この芦野地頭が芦野を支配した武士で、この武士が住んでいたところが、芦野氏居館跡と考えられる。
◆一里塚
町指定文化財
一里塚は江戸時代初期に幕府の命で築かせたもので里程を示し、旅人の便を図ったものである。塚の上には榎や杉などを植えた。那須町には三ケ所の一里塚があり、いずれも芦野にある。
江戸から数えて、
43里目 夫婦石の一里塚
44里目 板屋の一里塚
45里目 泉田の一里塚
400年を経た現在もその形を留めている。
◆境の明神(二所の関)
町指定文化財
旧奥州道中の関東と奥州の境にあり国境をはさんで2社がある。
関東側にあるのは玉津島神社で、奥州側にあるのが住吉神社である。
玉津島明神は明治39年の火災後に再建された。住吉神社の神殿も江戸時代末期天保年間に焼失した、境内には芭蕉の「風流のはじめや奥の田植唄」などの句碑がある。
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