北向きじぞう




kita.jpg今からおよそ270年ほど前、富士山が大爆発して人々を不安が不帯の農民を苦しめました。
農作物のとれなくなったふるさとを捨てて、南へ北へくらしを求めてさまよう人々がいました。
そんな人々の中に、北へ旅する者がありました。


「出羽(いまの山形県)の米沢は、米どころと聞いている。米沢へ行けば、仕事もあるだろう」と、
持てるだけの家財を背負い、夜逃げするようにふるさとを出ました。
那須野が原は北風がつめたく、山々は白く雪におおわれています。日暮れも間近い伊王野村でした。


「もうし、おたずね申しますが、このあたりは、なんというところでしょうか。」


「伊王野っていうとこだよ、ここは....。わしはここのもんだが、どこへいくのかね。」
「はい、わしら江戸近くの百姓でしたが、これから米沢へ行こうと思っています。米沢は、どう行けばよいのでしょうか」


「ヨネザワっていいやあ、あの山のすぐかげよ。もうすぐそこだあね」


そこは、伊王野の村びとが”ヨネサワ”と呼んでいる長源寺の前から北へつづく沢でした。子供を連れた夫婦がたずねた出羽の米沢と、伊王野の”ヨネサワ”を間違えておしえてしまいました。
旅人は、男のはなしに元気を取りもどし、子供の手を引いて雪ふる”ヨネサワ”へと入っていったのです。

翌朝、降り積もった雪の中から子供を抱きかかえてこごえて死んでいた旅人が見つけられました。村人たちは、そのあわれさを悲しみ、塚をつくって手厚く葬ってやりました。親切に”ヨネサワ”をおしえてやった村人は、「どうしてこんなことに・・・・。」と大声をあげて泣いていました。

伊王野村の村人たちは、この塚を「ガキ塚」と呼び、その「ガキ塚」に向けてお地蔵様をたててやりました。
お地蔵さまは、いまでも「まきぶち」の小高い土手から、田んぼをへだててジィッとこの「ガキ塚」をみつめています。

また、お地蔵さまの向いている方向が北になっているため、村人たちは、そのお地蔵さまを「北向き地蔵さま」と呼んでいるのです。

昔は、盆の二十三日には明るいうちからおまいする人々が絶えず、宵ともなると、道の両側にきれいな絵馬灯ろうがともり、大変にぎやかでした。






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