民話
◆夫婦石(みょうといし)
ここは奥州街道のとおる、芦野からすこしはなれた、とても小さな村です。
ここに、人間にばけるという、ヘビの夫婦がいました。
ヘビ夫婦は、いろいろな人間にばけていました。いまは百姓夫婦にばけました。
「ねえ、おまえさん、百姓にばけたのはいいけど、百姓の道具がぜんぜんないよ」
「どっからか、かりてこよう」
夫婦は、近くの家にかりにいきました。
「すンませんが百姓道具を貸してくれませんか」
「あぁ、いいよ」
うまく、夫婦は百姓道具をかりてきて、それから毎日いっしょうけんめい、働きました。そばを通りかかる人はみんな、声をかけていきました。
「やァ、ごせえが出るネ」
「まったくだ。まったくだ。あんたらこの村じゃ、いちばんの働きもンだがな」
「いやぁー」
夫婦は村でとても人気者になりました。ところがあるばん、きょうあったことなどをはなしているうちに、なにがおもしろかったのか、ふたりで、ゲラゲラわらいだしました。
「わっはっは」
「おっほっほ」
すると、夫婦とももとのヘビにもどってしまいました。あまりわらいすぎると、もとのすがたになってしまうのです。夫婦は、こっそり村をでて、1里(4キロメートル)ほどはなれた山の中のほらあなににげていきました。
そのころ、村ではふたりがいなくなったので、心配していました。ヘビ夫婦は、また人間にばけようと話をしていました。
「ねぇ、おまえさん、こんどはどんな人にばけるかねぇ」
「そうだな、くすり売りにでもばけてやるか」
こうして、くすり売りにばけ、村にいきました。そしてまた、村に住みついて、くすり売りをはじめました。
夫婦は、またこの村の人気者になりました。というのは、貧しい人びとにはくすりをただであげていたのです。この村にすみついてからちょうど2週間たって、つい、あることからわらいがとまらなくなってしまいました。それでまたヘビのすがたにもどってしまいました。しかたないのでまた、山のほらあなににげていきました。
ほらあなの中で、ヘビ夫婦はまた、なににばけようかとそうだんしました。いろいろはなしあい、かんがえた末、海から魚や海草を買い入れてきて売ることにしました。
そこで夫婦は、魚や海草を買い入れて、また村にいきました。村では、魚や海草などめずらしいため、みんなよってきました。それに安かったので、よろこんで買ってくれました。
こうして、村人にもすっかりなれたというときに、また、わらいがとまらなくなり、もとのヘビのすがたになってしまいました。ところが、ヘビのすがたにもどるところを、こんどはとおりかかった村人にみられてしまいました。村人は、
「これはたいへんだ。みんなにおしえなければ」とびっくりして逃げていきました。そして村にいき、みんなにはなしました。するとひとりが、
「土ンなかにうめたらどうだんべか」
「うんだ、うんだ」
と、はなしの結果、ヘビ夫婦を土の中にうめてしまいました。
ところが、ヘビをうめたところに、いつのまにか2つに石ができていました。1つは大きく、1つはそれよりもやや小さいのでした。村人はみな、ふしぎがりました。
うめられたヘビ夫婦がうらんで石になって出てきたのではないかと考えました。それからというもの、村人は石のそばをとおるのをさけ、きみわるがりました。
こんな出来事があって1ケ月すぎたある夜、石のところから子どもの泣き声がきこえるのでした。毎晩、泣き声はきこえました。村人はきみわるくなりました。それでこうして村の人全部があつまって話し合いをしているのです。
「どうすべか。このままじゃ、きみわるくて夜なんか、ねらんねべな」
「うんだ、うんだ」
「どうだべか、芦野から坊さまをよんで、お経でもあげてもらうべか」
「うんだ、そうすべ」
ということになって、芦野の宿へお坊さんをよびにいきました。そしてお坊さんにお経をよんでもらいました。
それからは子どもの泣きごえもきこえなくなりました。しかしまた、小さな石ができたそうです。
それでも村は平和になりました。
現在、夫婦石という集落があり、ここに、その石がいまでも実在する。みよといしの方面へお越しの際はぜひご覧ください。
大きな石と小さな方の石が、よるになるとくっついてしまうという話もある。
◆北向き地蔵
伊王野下町巻淵に北向地蔵が建立供養された正徳5年(1715)は、「8代将軍吉宗の享保改革を直後にひかえた、いわば積年の弊の吹きだまりのような年であった。寛文後期から元禄初期にかけて台頭した新興商人勢力は、元禄年間はほぼ保合をつづけながら次第に競争激化の様相を示し、諸政沈滞のうちに正徳・享保の時代に入る」(『元禄時代』・大石慎三郎−岩波新書)。
宝永4年(1707)に富士山が爆発する。同5年に物価統制令、つづいて諸越訴、行政機構の改廃、特に米価の高騰は庶民生活を極度に荒廃させたであろう。
このような世相をふまえて、北向地蔵の伝説をとらえてみることにする。
寒い冬の日であった。
三蔵川の丸木の橋を、向宿から巻淵へ渡った親子連れがいた。父親と母親と三人の子であった。父親は月代が乱れ、母親もびん髪が風にあおられていた。子どもは2人が歩き、1人は母の背にいた。みんなあお白く、垢だけが黒くぶちていた。
「よねざわへいきたい。どういけばよいのか」
父親が、人にきいた。
「よねさわか、よねさわはあっちよ」
と、その人は言った。
「ホラ、すぐそこに山がある。あれはここのお城山よ。そのかげがよねさわよ」
父親の頬にわずかに血が走った。
「アア」
ため息ともつかない声がもれた。
「ついた。よねざわへついた」
父親は、2人の子の手をひき、母親は子を負って走るようにいった。
人は、いぶかしげにそのあとを見送った。
冬の日は早い。那須おろしが風花をさそって、この里に吹いてきた。里家はとざされ、炉の火だけがすき間から洩れていた。
夜ふけて、風花は雪となっていた。
あくる朝――
よねさわに凍えて死んでいた5人の親子連れを見つけた。きのう、この親子連れにあった人も来た。
「かわいそうに」
みんなで遺骨を負って釈迦堂山に葬ってやった。その人が言った。
「奥の米沢と、よねさわをまちがえたんだ」
せっかく教えてやったことが、あだになるとは思わなかった。親子連れの、それでもおだやかな死に顔が救いだったと、その人は涙を流しながら葬いのあとについていった。
正徳5年(1715)、伊王野の里人たちは、釈迦堂山へ向けて地蔵を建て、念仏を唱えて親子連れの霊をなぐさめた。
◆五輪塔 東岩崎
その子は、口べらしのためもらわれてきたのだという。子もりをしたり、小走り使いで、その家の仕事をまめにやった。むかしのことで、読み書きもそろばんもすることはない。朝から晩まで、小さいながら働くだけであった。
彼岸が過ぎて、山にコブシの白い花が咲くころは、もう田うないをはじめる。まんがで黒い土を掘りかえす、苗代をつくる。馬のはなどりがその子の仕事になった。山からの出水で冷たい田をかくのは、足ばかりでなく、はなどりの手さえかじかむ。その子は、土に足をとられてよろめく。はなどりが乱れた。
「ヤイ、しっかりしろッ」
馬のうしろでまんがを押す男は、その子の買主であった。太いしののむちで、泥田をたたいた。冷たい泥水がバシッと、はなどりするその子の顔までとどいた。
常には水のない田は、油田あたりとは違ってかたく、そのくせ、水にとけた泥はねっとりと足にへばりついて、ひと足ひと足をぬくのに骨が折れた。
その子のはなどりは一日ではなかった。
つかれて家に帰ると子もりがあり。薪はこびがあった。仕事のはかどりが進まなくなると、男がその子を叱った。
ある日の、田ァかきであった。寒い日で西風が釈迦堂山を越えて岩崎の田面を走る。その子は、やっぱり、はなどりをした。が――今日は、いつもよりぐっと仕事がおくれた。
「ヤイ、ヤイ、なァしてんでエ……」
まんがをおいて男は、その子のそばへ来ると、いきなり馬を追う太いむちでその子をビシッと打った。
その子は、泥田の中にたおれ、泥水に顔をうずめ、そのまま動かなかった。
男はどうしたかわからない。
里人たちは、寄りあってその子の幼い生涯をとむらった。いつもコブシの花が山に咲くころ、里人は念仏申して供養してやった。
いま、東岩崎へ奈良川を渡る手前、左の田の畔に、黒い小さな五輪塔がある。それが、その子の供養塔であるという。